タイトルMDOnlineの最初から最後まで〜(3)ピークから衰退までカテゴリー業界動向
作成日2002/3/27 16:10:44作成者新居雅行
こうして1年があっという間に経過したが、MDOnlineのもくろみとしては、Mac OS Xへの移行というイベントに乗るということであった。創刊時は、Mac OS 9がリリースされるなど、ユーザ環境はMac OSだったけど、開発者環境も実はMac OSだったと言っても良い。もちろん、NDAベースでのRhapsodyの配付や、Mac OS X Server Ver.1.x系列もあったけど、技術的そしてビジネス的な意味で、「ほんとうにXになるのか」というのが懐疑的な時期であった。それに、NeXT向けに開発されていたソフトウエアならまだしも、Mac OS向けに開発していたソフトウエアを持っていくということも事実上不可能だったといえるだろう。
だが、Mac OS Xに移行するときはいつかは必ずやってくるとしたら、最初にコミットした媒体が強くないはずはないと思った。また、99年の段階で、もはや空虚だった(つまり強固な市場を生まなかった)パソコンブームのまっただ中であるが、Mac OS Xの仕様を考えるにつけて、「もはやど素人がパソコンを使う時代はこなくなる」という読みもあった。ある程度の知識がある人たちが数多くいるという市場にシフトすることは予想できていた。そこに来て、プラットフォームが入れ替わってしまうのである。開発市場が活性化するし、WebObjectsをはじめとしてSI業者も活発化することを予想しての「開発者向け情報提供」という方向性があったのだ。だから、MDOnlineの売り上げがたいしたことがなかった初期の頃でも、「Xが出ればなんとかなるさ」という読みもあった。
そして、2000年10月の懐かしいタカシマヤでの行列がやってくる。この月、MDOnlineの一般売りの最高記録数である月刊59人をクリアした。Public Betaの到来が追い風になったのである。まったく狙いとおりだ。2000年末で、200くらいの一般購読者数を得られるほどになった。この頃から、ヘリオグラフ顧客への販売をはじめる。

ただ、そうなってうまくいくかどうかは微妙なところだ。創刊1年のあたりで、やはりより収益を重視した結果、MacWIREへオンライン独占配信を行う代わりに、費用をより多くもらうことで、収入のアップを目指した。他の有力なサイトへの売り込みをかけてはいたのだが、やっぱりページビューで評価する人たちに、Macで開発者というコアな世界は受け入れられてもらえなかった。つまり、複数チャネルへの配信ビジネスをあきらめたのである。一方で、値上げを受け入れてもらえたこともあって、MacWIRE一本へとオンラインは絞り込んだ。しかしながら、すべての記事がMacWIREに掲載されることになる。もちろん、合意の上であるが、やはり一般売りには影響があると考えた。ところが、もちろん、Public Beta時のピークは超えられないにしても、明らかにいままでよりも売れている。月に10台だったのが、20台くらいに入ったりするあたりだ。ちょっとしたことだが減っていないことは大きいのである。

そして、2001年3月にはMac OS X 10.0がリリースされる。なんだかんだとあったけど、ここでもやっぱり一般購読者がのびている。また、2001年4月から(実際には5月からだけど)はMOSA会員の購読も開始した。MacWIREとMOSAからの安定収入がある上に、一般読者からの売り上げがあるわけで、収入的にも安定しはじめた時期ではある。ただ、それで安心してはいけないので、コンテンツの強化のために、私以外の筆者の記事を増やすことを考えた。そこで、原資が必要になる。いろいろな交渉の結果、それもあるメーカーが(ってちょっとわざとらしいか〜笑)捻出してくれることになった。
ところがである。テロリストの操縦する飛行機が世界貿易センタービルに突っ込んだ…。みんなはテレビに釘付けになったそうだけど、私は見てはいられなかった。これがすべてを予見していたのである。もちろん、そのときに自分の身にまで降り掛かるとは思ってもみなかったけど、それは写し出された自分の姿を見たくなかったのかもしれない。さらに悪いことに、その直後に腹痛で寝込んでしまった。さんざん検査をしたあげくに大腸菌にやられていただけだったようだけど、今思うと昔から過敏性大腸炎気味だったのが、その症状が強く出たのか、なかなか直らなかった。いずれにしても、1か月近く寝込むことになり、いろいろとご迷惑をおかけしてしまった。
ところが、病気から復帰したものの、支援の資金が止まっている。さらに、MacWIREへの配信もできなくなることになってしまった。その頃には倉橋屋さん経由の販売も始まったけど、安定収入源が一気に減ったのである。それぞれの会社の事情もあるのは分かるけど、結果的にはテロによる経済の冷え込みというのが引き金になっている点は否定できない事実だ。テロには屈しないと強い意気込みを見せながらも、水面下のフローでは一時的にしろ大きく揺るがされてしまったのである。もちろん、黙っていたわけではないが、その段階で、MacWIREに絞り込んでしまっていたこともあるし、いったん決まってしまったことはなかなか覆すことができない。かなり悲壮感あったので、あちらこちらにいろいろお願いをして回ってみたけど、結果的にうまくいかない状態だった。もし、そこであきらめていたら、2001年末で廃刊にしていただろう。だけど、年末に向かって体調は非常に良くなり、JavaOneで受賞したというモチベーションの高揚もあり(笑)、もうひと頑張りしようと思った。
残るは購読者からの収入を増やすことしか残されていない。もっとも、MJRをやるきっかけになった本来のテーマが突き付けられたに過ぎないと開き直った。MacWIREへのフル配信がなくなった2001年12月から、当然ながら購買数が増えた。12月1月と、数でいえば40台の売り上げがあったのである。けっして駄目な数字ではない。ただ、これが特需的な意味合いもあるのだけど、まだ芽があると考えた。ここでやめるのはもったいない。MacWIREへの配信をしているときには、やはり、一般ニュースメディアへの記事ということをやっぱり意識した。あちらでもヒットをそれなりにかせがないといけないからだ。だが、POWERBOOK ARMYへの配信が復帰したとはいえ、大口配信がなくなったことから、読者を稼ぐ戦略をたてた。それが1か月のお試し購読と、コンテンツの強化である。解説記事をとにかく増やし、また、PDF化など、とにかく買う価値をなんとか増やす作戦に出た。12月から…だいたいWWDCまでその路線を突っ走ってみてチェックする予定だったのである。

だが、2月末にいきなりローカスを解雇となった。ただ、2月上旬から社内はあわただしかったのだけど、その後「大丈夫」という説明を聞いていたので、ちょっとは安心していたので、むしろかなりいきなりだった。もっとも、2001年後半での落ち込み時に、危機のときのマインドトレーニングはしていたので、対応は素早く行った。通告を受けてすぐに廃刊を決心した。解雇を告げられる電話で廃刊費用の捻出については約束を取り付け、その日のうちに計算する。後でちょっとミスもあったのだけど、大きな桁では違いはないところまで持ち込んだので、翌日会社で契約などを作って12年半勤めた会社を後にした。
個人で続けないのかという声もあるのだけど、少しは考えたものの、やはり媒体というものは出版社があってそこで媒体として存在していないことには、どこかでバランスが崩れてしまう。ずっと私一人でやっていたとは言え、ローカスという企業にいるから、経理部というシステムを使うことができ、さまざまなオンライン決済会社と契約ができる。さらに支援という名目でお金をもらえたとしても、それは会社に対してであって、編集部として独立しているというスタンスは貫ける。また、給料という生活を安定化させるベースがあるから、毎日、ニュース記事を書けるし、特定のテーマにのめって調査することもできる。個人でやるには、たとえさまざまな支援があるとしても、無理が出る。また、入金は運転資金となって、たとえば「廃刊費用」なんてものも出ないだろう。これでが正常なビジネスとは言えない。
他の誰にも作れないコンテンツを目指して作り込みをしていた結果、会社という基盤をなくした自分も作れないコンテンツになってしまったのである。とにもかくにも、「出版」である限りはビジネスとして成功しなければならない。もちろん、MDOnline末期は対会社的にも赤字だったけど、1つ負け惜しみを言わせてもらえば、MDOnlineが赤字だから解雇されたのではないというところが、自分としては救いでもあるし、逆に非常に残念なところでもある。

‥‥‥‥‥‥‥この項、続く‥‥‥‥‥‥‥[新居雅行]‥‥‥‥‥‥‥
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