タイトルMDOnlineの最初から最後まで〜(6)負けを認めた上で「勝てなかったわけではない」-1カテゴリー業界動向
作成日2002/3/30 15:30:13作成者新居雅行
これがMDOnline最後の記事になる。これまでは、ビジネス面、あるいは出版の新しい形としての考察をしてきたが、最後はやや個人的な事情あるいは会社事情を説明しておきたいが、結論は明白で「ちゃんとした会社だからビジネスができる」ということに他ならない。知り合いの方々は御存じの通り、私は89年に日経BPを退社してローカスに入社したが、すでにそのときにはローカスは設立されており、共同設立者の藤森さんに引っ張られる形でローカスに入った。したがって、私自身はローカスの設立者でもなければ役員等の経営陣でもなく、単なるスタッフである。最初の頃はコンサルティングが中心だったが、書籍がうまく売れるようになってきたので、その後に書籍の執筆を中心にし、出勤するのもやめて在宅勤務となって仕事をしてきた。ただ、書籍についても陰りが出てきたので、オンラインへと舵を切ってみたのである。その間、スタッフはいろいろ変化はあったけど、藤森さんが上司で、結果的にここ何年かは好きなようにさせてくれた。コンサルティング部門でセクレタリやあるいは他のスタッフもいたけど、次第に少なくなり、最後には、藤森さんと私だけになる。オンライン出版をはじめた頃には、他にネットワーク管理や開発をしているエンジニア担当者もいたのだが、MDOnline出版直後の頃に上司との折り合いが悪くなり、結果的に解雇に近い形でやめさされている。今思うとそのころから崩壊は始まっていたのかもしれない。

オンライン出版を始めるにあたって、つまりはエンジニアのバックアップがあるから、コンテンツに集中できるという話がまとまりつつあった。だが、サーバーはたててくれるし、ソフトはインストールしてくれるけど、結局はそこまでだった。アプリケーションは自分で書かないとどうしようもなかったのである。だが、やると決めた以上仕方ないので、腹を括ってプログラムをしたのが現在のMDOnlineのシステムである。だけど、その直後にエンジニア担当はいなくなり、訳の分からない社内システムが残った。そして私がなぜかネットワーク管理者に任命されてしまった。引き継ぎでは、ルートのパスワードなどをインタビューしないといけないというどうしようもない、思い出したくもない状態だった。在宅勤務をしていてのネットワーク管理なんて限界があるが、それを承知でやってくれというので引き受けたのである。ただ、当時はLotus Notesを全面的に使っていたのだけど、そちらに関する知識はなかったので、藤森さんが人脈からパートタイム管理者を引っ張ってきてなんとかした。
そのころ、社内では自分にかかわること、関わらないことで、やたらとゴタゴタしたというのが思い出される。社内は一気に2倍に近い人員が増え、営業部やプロモーションのセクションができたりしていた。また、明白にバブルな売り上げ目標がかかげられるなど、ちょっとどうかしていると真剣に思った。ただ、私のいたコンサルティング部門は手は付けられないどころか逆に人員は減り、私は好きなことをさせてもらっていたので、文句の言い様がない。だけど、そうした拡大路線で結果的につまづいた。いくつかのビジネスでシンクロするように大きな赤字を出したのである。もちろん、普通はビジネスはうまくいたたりいかなかったりだから、いろいろなビジネスをやってバランスを取る。それらがまとまってうまくいかないのは偶然としてあるだろう…という説明だったが、今思うとそれは違うだろう。個別のビジネスの内容までは分からないけど、拡大路線でビジネスと体力のバランスがとれなくなっていたのが損失の原因と思われる。たまたまシンクロしたのではなく、それが会社の実態だったのだと思う。大きく損失を出すものの、社長らの努力で会社は存続できるようになったけど、大きくリストラをしなければならなかった。比較的新しく入った従業員は解雇となり、その他の従業員は賃金カットとなったが、希望退職的な勧めもされたという状況だ。そこで、もうやってられないと言って自分からやめた人も何人もいた。

他にも個人的には釈然としない事件(非公開…)もその直前にあったので、もし、MDOnlineをはじめていなかったら、間違いなくここで退社していただろう。MDOnlineを初めて半年も経過していないのに、ここでやめるのは惜しいので、ぐっとこらえることにしたのである。2000年問題で世間が弾けていた頃、ローカスは社内的にはじけていたというわけだ。
ところがその後に、上司である藤森さんの体調が悪くなる。2000年の9月に亡くなるわけだが、春先から入院をしており、詳細は語られなかったもののまず復帰は無理という空気があって、社内は落ち着く時間はなかった。しかも、40人体制の会社が20人を切るわけであるから、こちらの仕事であるネットワークも大幅に変化があった。スリムにするのに結果的に1年近くはかかったけど、折しも回線コストは桁で安くなり、アウトソーシングも可能なので、とにかくしのぐことができた。実は、Lotus Notesは藤森さんの肝煎りでもあったし、Notesでのビジネスでかせいでもいたから、社内的にはOKだったのだが、お守がいなくなると、経費のかかるネットワーク資源以外の何ものでもない。藤森さんが入院した後でのネットワーク管理者会議で、恐る恐るNotesの廃止を提案してみたのだが、あっさりと社長や幹部が賛同したので、そこから藤森さんの病状は確信できたということもある。
9月にあわただしく葬式などが進められ、社内的にはコンサルティング部門を廃止することを通告した。セクションは私一人になっており、MDOnlineをメインにがんばっていたので、コンサルティングの看板はたたむしかなかった。実は、Notesでの開発依頼などが、2か月に1度程度は舞い込んでいたのだけど、すべて断っていたような次第だったので、いっそのこと、看板を下ろすべきだろうと思った。会社の方も、これまで部長だった人たちが役員となり、新しい体制となった。MDOnlineは実は「情報メディア出版局」と名前を出していたけど、私自身は総務部の一員というのが社内的な位置付けとなったのである。ただ、総務部門の部長に対して報告や経費清算の依頼なんかは出していたけど、ビジネスは勝手にしていてください…的な位置付けになったのである。藤森さんが元気な頃は、いちおう管理はされていたけど、とうとう管理されていない立場となって、それでもローカス従業員でということで、MDOnlineを続けることになる。はっきり言ってこの立場はおいしい。
その直後、Public BetaやMac OS X正式版発売にともなう売り上げ増や、MacWIRE、MOSAといった安定収入が増加したことから、上向きだったので、社内でそうしたことをしていても問題にはならなかったのだと思う。2001年度上期までは、情報メディア出版局、つまり私については、MDOnline以外に雑誌や書籍、調査等の仕事もこなして黒字であった。
さらに社内的にはカットされていた賃金も戻り、一時期はうまくいっているようにも思えた。だが、どうやら社内的にはいろいろ無理があったのだと思う。折しも、私が寝込んだ2001年秋ごろ、今思えば、実は筆者の方々に支払い原稿料が支払われていないということが連絡があった。きちんと支払依頼書は書いているのに、支払いがされていない。実は事務作業の簡略化のため、毎月請求書を書いてもらわなくても原稿料が支払われるように覚書を取り交わしていた。そのため、請求書の紙がないことから支払いのチェックがうまくされなかった…と説明がなされたけど、やっぱり今思えば、すでに会社の歯車は狂っていたのだろう。「金払いが遅くなる」というのはつぶれる会社のチェック項目である。その後は支払いはされるようにはなったけど、こうした徴候を見のがさないというのが基本であることは、やっぱり後から気付くものである。
寝込んでいてた状態から動けるようになった後でもなかなか体調は完全復調はしなかったけど、なぜか、12月の中頃から急にシャンとしてきた。収入ががた落ちとなったMDOnlineだけど、もう一度がんばってみようと思った。実は寝込んでいた期間は、まったく消化していない有給休暇として処理してもらったので、そこは会社員の特権でもある。その意味で気持ち的にも楽観的でもあり、2002年からもあの手この手を考えていたのであるが…。

‥‥‥‥‥‥‥この項、続く‥‥‥‥‥‥‥[新居雅行]‥‥‥‥‥‥‥
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